【教育勅語】復活問題を考え思ったこと

「教育勅語」は日本国憲法に反するため無効、又は、排除されています。それなのに、何故、安倍政権は「教育勅語」には今でも良いところがあると言い、教育教材として復活しようとするのでしょう?その真意は、どこにあるのでしょう?

安倍政権が「教育勅語」には普遍的価値が含まれているとし、例にあげているのが、「兄弟が仲よくし、父母に孝行を尽くし、夫婦互いにむつみ合い、朋友互いに信義をもって交わり」という内容です。これら徳目は大切だから守るべきだと上から命令する。

それらは、わざわざ言われなくても、国民は人と人が支え合う日常生活の中で、自ら獲得している生き方です。

戦前・戦中は、教育勅語なので天皇が臣民(国民)に命令した。しかし、戦後は、教育勅語が日本国憲法や教育基本法にとってかわりました。ですから、日本国憲法を守る立場に立てば、教育勅語を教材に使おうなんて思わないはずです。

教育基本法が2006年に改定され、その方針に沿い2014年に改定された「義務教育諸学校教科用図書検定基準」および「高等学校教科用図書検定基準」には、教科書検定基準としてそれまでにはなかった「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解又は最高裁判所の判例が存在する場合には、それらに基づいた記述がされていること」が加えられています。

このことから、明々白々な客観的事実に反して閣議決定された教育勅語使用容認論が権力的・権威的に押しつけられる(つまり、教育への政治の介入)危険性への懸念はけっして余計な心配とばかり言っていられない状況があります。教育への国家統制のシステムづくりが着々と進められています。

「兄弟が仲よくし、父母に孝行を尽くし、夫婦互いにむつみ合い、朋友互いに信義をもって交わり」どれをとっても、徳目があるから、誰かから命令されているからそう行動しているのではなく、個人の心の声がそうしたいと言っているから、その声に従って行動しているのが現実ではないでしょうか。

私たちは、ロボットじゃない、徳目に従って生きているわけではない。私たちは、日常、人と人が支え合う生活の中で、心から「仲よくしたい」「孝行したい」「むつみ合いたい」「信義をもって交わりたい」と思うから、そのように行動しています。

個人の心の中で感じていることを大切に、それを行動の基準にして生きています。日本国憲法にある「個人として尊重される」「思想及び良心の自由」、これを正に実践しているわけです。その生き方へ「徳目」だ、「批判できない正しい事」なんだから不平を言わずに従えとばかり、押しつけられ強制されるのは、「個人の尊厳」が脅かされることになります。自分の心の声を確認することが妨害され、強制された「徳目」の様なものを思考停止状態で無批判に実行する訓練が、教育になってしまうのが心配です。

決まったこととして「法律」や「様々なルール」を黙って守れと上から押しつける、それに対し、国民が思考停止して、黙って従う。このやり方では、管理する側が社会の管理運営に一時的に成功したと思っても、例えば、昨年末頃に大きくクローズアップされた「大企業のルール無視→信用失墜」事態に陥ってしまいます。この原因は、労働者個人や消費者個人の声を尊重しない経営方針だからではないでしょうか。労働者個人の声、消費者個人の声を尊重し、経営に反映させていれば、このような信用失墜の事態に陥らなかったでしょう。

教育勅語の復活問題を考えていたら、日本国憲法が保障する「個人の尊重」が大切だということに行きついてしまいました。考えてみると、人間社会は、人と人が支え合って生活を、経済活動をしているわけです。人と人が信用し合うことが必要で、そのために、「個人の尊厳」をお互いに尊重し合っています。これが、そもそもの根本なんだと再確認しました。

教育勅語の復活問題のような教育への国家統制が進められたら、思考停止に慣らされた国民が多くなってくる心配が。思考停止には未来がない。「原発の安全神話」も、思考停止に陥ったのが問題でした。